パクリよりひどいもの!?2005年11月11日 01:54

飯田 文学史から外しましょうか。パクリらしいし。
米光 でもさ、そういうのも入ってるっていうのが文学なのかもしれないよ。
飯田 なるほど、●●●●もありなんだ。
米光 うん、あり。
麻野 ええっ、あり?

と、『日本文学ふいんき語り』のある一章から引用してみました。
さて、●●●●にはパクリ疑惑のある某作家の名前が入ります。
だーれだ?
答えは、このエントリーの最後で。
(『日本文学ふいんき語り』の章構成はコチラ

ネットが一般的になったことでクローズアップされた問題に
「パクリ」があると思う。
おもに、
1従来の著作権の概念が成立しにくいメディアであること。
2個人の発見をおおぜいに伝えやすいメディアであること。
の二方向からさまざまな問題が論じられてるようですが、
今回は、2のほうをツラツラ。

先月の末ごろ、
話題の『誰のための綾織』を読みました。
30年来の『はみだしっ子』ファンなので(関係ないですが、『はみだしっ子』ファンだって明言するってなんかちょっとはずかしいですね。
太宰治が好きっていうのと似てるっていってたのは枡野浩一さんでしたか)、
鼻息荒く「疑わしい」箇所に付箋をビシバシ貼付けていったら写真のようなことになってしまったので、
こりゃ、参照しちゃったのは間違いないなーと思った。

でも。
意外だったんですが、
なぜかそんなに腹立たなかったんですよ。
まあ、あまりにも引用ぶりが激しくて笑っちゃったってのもあるんですが、
もしかして、
作者の飛鳥部勝則は「気づいてほしいんじゃ?」と思ったんですね。
わざとやってるのかなと。
もしかして、ネットで「パクリだよ」と糾弾されるところまでを想定した新しいメタ手法か?
と。
新本格の新しい地平なのか? と。

引用もさることながら、『誰のための綾織』って作品そのものが
『はみだしっ子』っぽいエッセンスに覆われている。
たとえば、
理屈っぽくて純粋な子どものルールで生きてる女子高校生4人(+教師)がおかしてしまったある罪。
語り手は中のひとりだが、それをこころに鬱屈させ、罪としてひきうけてはいるものの、
贖罪のしかたにつまずいている。
っていう設定をとっただけでも似てる(と思った)。
テーマとして対峙しようとした? とも読めた。
作者はものすごい『はみだしっ子』ファンで、
一種のオマージュ、あるいは「批評」として提出した作品なのかと勘ぐってみた。

で、『誰のための綾織』というタイトルが『はみだしっ子』のなにかにちなんだ
アナグラムになってるんじゃないかとか、
引用の激しいページになにかキーワードが隠されてるんじゃないかとか疑って、
タテヨヨコナナメヨミなどさんざんしてみたりしたけどわからなくて、
パクリ疑惑の声がどんどん高まる中、
作者の返答をすごい楽しみにしてたんです。

そしたら、これ

がっかり。orz.
ほんとにほんとのいわゆる「パクリ」だったのね……。
考えすぎでした。

だから、飛鳥部勝則さんを擁護するつもりは毛頭ないんです。
ただ、飛鳥部さんにたくらみがあったら、
パクリって何? 引用って何? オマージュやリスペクトとどう違うの?
これからの創作とどうからんでいくの?
みたいなことをきちんと考えるきっかけになったという点が残念で。

そして『誰のための綾織』が、
わたしの誤読の通りに、
パクリを疑われる覚悟をもって(あるいは意図のもとに)
『はみだしっ子』のテーマに向き合った作品だったとしたら、
それはそれでおもしろい試みかも〜と思ったんだよ。

たとえば、恩田陸がパクリだってみんな言わないのは、
本人がオマージュだと表明しているから、だけではないと思う。
『はみだしっ子』だって、引用の多いマンガだけど、
「パクリだ!」っていうような読者はあんまりいない。

今回に限らずパクリ論議になると、

あんなにまんま引用したらバレちゃうよ、
やるんだったらもっとうまくやればいいのに。

という声が必ずあって、それもひとつの真理だとは思うが、
個人的には、そういううまーいやりかたのほうがイヤな気持ちになることもある。

ちょっと長いですけど以前にわたしが書いた日記(mixi)から引用します。

三浦しをん『私が語りはじめた彼は』を読んでなーんか微妙にどんよりしてます。
いや、全体には面白かったんですが、連作形式のなかのいっぺん「水葬」が……。

以下ネタバレあり注意です。
これ、吉田秋生の傑作『ラヴァーズ・キス』をどーしても思い出してしまう。
いや、パクってるとかではないの、ネームも重なってないし、具体的にこのシーンまんまだよ! ってことでもないんで、
ものすごーく『ラヴァーズ・キス』が大好きな人間が被害妄想的に感じる程度のことだと思うんだけど。
●鎌倉の海
●大潮の晩
●鮮烈な月のイメージ
●海に入っていって死のうとする少女(『ラヴァーズ・キス』では少年)
●その理由は、実の親が少女(少年)にいだいている性的な妄想から逃れようとするものである。
この5点がかぶっているのよねー。
『ラヴァーズ・キス』はこの「鎌倉の海の大潮の晩のできごと」が全体の大きな伏線になってて、
オムニバス形式、全二巻という小品のなかに、3回くらい出て来るシーンで、作品の中核といってよいと思う。
『ラヴァーズ・キス』を読んだ人間なら、まちがいなく忘れられないシーン。
連作の一編のほんの数ページにすぎないシーンだから問題にするようなことでもないんだろうけど、
三浦さんってマンガ好きだから当然、こんな有名な作品、知ってるよね……? 
オマージュって感じもしないよなーっていうか、なんか要領よく引用されちゃった? 
いいけどさー、ブツブツ……。


森絵都の『永遠の出口』のネタを最初のほうで「都合よく」つかってしまっていたドラマの「女王の教室」にも
似たような気持ちをいだいた(あれはセリフもそのままなところあったけども)。
おもしろくて刺激的でドハマりしたドラマだっただけに、そこになにも言及されなかったのがいまも残念でならない。

文章をそのままパクるよりも、
もっと罪の深い行為ってあるんじゃないだろうか。

文学には準拠枠って用語があるし、
詩歌には本歌取りって文化がある。

ネット的な考え方でいくとテキストはオープンソースだって議論(最初にあげた1の方向)もあるようだけど、
そういうところとはまた別に「パクリ」問題を考えてみたいな。
あーあ。『誰のための綾織』にはそういうことを考えるきっかけになってほしかったな。
わたしの妄想だったか。
惜しかった。

長くなりました。
さて、最初のクイズの答えです。たぶんおわかりですね? 
●●●●に入るのは井伏鱒二。
教科書でおなじみの「山椒魚」にはパクリ疑惑があります。
『日本文学ふいんき語り』でも引用させてもらったんですが、
興味のあるかたは、
猪瀬直樹のこの文章を読んでみてくださいな。

パクリの罪で、井伏鱒二って文学史から外すなのべきか?
ちなみに、『日本文学ふいんき語り』の会話はこういうふうに続きます。

米光 文学って案外懐が深い。読んでポカーンとなってもそこに何かを見いだすのが文学なんだよ、きっと。
すべての作品は読者の側にあるものなんだから。

コメント

_ 飯田和敏 ― 2005年11月11日 21:55

文学史を再点検してもいいのだ! と井伏鱒二が教えてくれました。本当にありがとうございます。

_ kaerubungei ― 2005年11月11日 23:29

「山椒魚」編は、ほんとに新しい地平でしたなあ〜。もっとやりたい、文豪パートっ!

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