三島っちクッキーもらったよ! そして高橋源一郎さんの書評が2006年02月16日 14:03

1日おくれのバレンタインデー。
2/4のイベントにきてくれたイトーさんが、三島っちクッキーをつくってくれました。
サイズは手のひらにちょうどおさまるくらい。
かわいいでしょ? 
ココア生地のりりしい目許がポイントです。
三島由紀夫も、じぶんがまさかこんなプリチーなものになるとは
思ってもなかったでしょうねえ。
イトーさん、ありがとね!

さて、今出てる「週刊朝日」
こないだ『変身』コラボでごいっしょしたばかりの高橋源一郎さんが、『日本文学ふいんき語り』を書評されてます。
3人のあとがきをそれぞれ引用したあとでこうあります。

“その言やよし。というか「まったくその通り×3!」とぼくも言いたいです。 文学というものの読み方は、彼らの言うように、偏見や先入観をなくし、「今を生きている」「自分の小さなものさし」で「平常心」をもって読むこと、それしかないのだから(そのことを通して「ものさし」自体が変わっていくことが、なによりの醍醐味なのだ)。”

“「まったくその通り×3!」”
なんてこころづよい!
こんなに支持していただけるとは思ってもみなかった!

じつは、『日本文学ふいんき語り』の「電車男」のゲーム化の章(webバージョンがここで読めます)中、高橋さんについてこんなふうなくだりがあるのですよ。詳しくは本を読んでいただきたいのですが、高橋さんが朝日新聞で書いてた『電車男』評には事実誤認があるんじゃないか? という米光一成の指摘に続けて、

米光 (前略)もしかして『電車男』に嫉妬してるんじゃないかって説はどう? 高橋源一郎ってこういうの書きたかったんじゃないのかなあと今ちょっと思った。
飯田 ああ、そうかもね。
米光 『さようなら、ギャングたち』とか『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』とか、いままでにない視点が物語に入ってて小説って自由なんだって感じで面白かったけど、『電車男』ってその延長線上にある。電車男の話を軸にいろんな視点やいろんな妄想があって、すごい自由な小説になってる。
(中略)
米光 誰かが勝手に妄想してる電車男とエルメスの会話とかもあって。物語が自由で多層的になっているこの感じに、高橋源一郎は嫉妬しないといかんでしょう!
飯田 高橋源一郎は中の人をやればいいんじゃないでしょうかね、いろんな祭りをまとめて。

わはは、生意気だなあ〜。
ご本人にあった後で改めて読むと、またドキドキしますなあ。
高橋さんがこの連載を読んでるらしいとは聞いてたので、
単行本収録の際、正直「これどうしようか」と一瞬、迷いました。
でも、“物語が自由で多層的になっているこの感じに、高橋源一郎は嫉妬しないといかん”という指摘は的を射てると思ったし、
作品をちゃんと読みこんでの発言であって、「高橋源一郎評」としてちゃんと成り立ってる、
愛もある。
これを削除するのは、ゲーム作家たちにも、高橋さんにも失礼だ……。
と判断して、残すことにしたのでした。

そしたら、「週刊朝日」の評の最後にこうあるではありませんか!

“それからですね、『電車男』の章で、「高橋源一郎ってこういうの書きたかったんじゃないか」と米光さんがおっしゃってましたが、確かに書きたかったかも!”

ひゃー、大人の対応だなあ。

(や、やっぱ読んでらっしゃったのね)と冷汗をかきつつ、 ヘンな気をつかわなくてよかったなあとしみじみ思ったのでした。

と書いてる途中、ネット上でも書評してくださってることに気づきました。
Mammo.tv「高橋源一郎の時には背伸びをする」の「#73 文学で遊ぼう」の回です。高校生向けのサイトなのね。
『日本文学ふいんき語り』の『こころ』のゲーム化の過程をくわしく紹介しつつ、

“学校で『こころ』を読んだ人はびっくり。漱石への冒涜? とんでもない。文学は、ど んな風に扱ってもよろしい。読まないのが最悪。次に悪いのは、人(や教科書や先生や、 どこかの本の解説)の意見を鵜呑みにすること。それ以外は、すべてオーケイ、なのが文学のいいところなのである。”

と締めてます。そうだよなあ、ほんとにそう!
高橋源一郎さんには『日本文学ふいんき語り』の活動をどんどん続けていく元気と勇気をもらいました。

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